札幌の判決について。再考。でも、まだ途中。
おはようございます、けんいちです。
札幌の判決については、以前書いた通り。
すごく大きな前進だったと思います。
きっと、上告審での判決が真逆だとしても、今後に大きな影響を与えると思う。
でも、その一方で、あの判決がとても限定的なことを認めたいと言ったものだとも思う。
それは、今まで同性同士の婚姻に障壁だった両性とは何かを明確にしたかっただけだと思う。
別にLGBTQ+の権利全てについて何か言っているわけではない。
それを受け止めることが重要だと思う。
もちろん、本当に差別のない状況を享受したいと思うけど。
何がダメで何がOKか。
LGBTQ+が求めている権利って、自分がクラクラしてしまうことは包含しないのか、疑心暗鬼になってしまう。
マーケットがあればいいのか。
なければOutなのか。
生理的な拒否反応って我慢すべきことなのか。
何もかもが理屈や論理で正論化されるのか。
僕自身のことは認めてほしいけど、僕の感覚に合わないものは認められない。
でも、それは裏を返せば僕を認められないこともありうることを意味している。
誰がLGBTQ+なんて一括りにしたんだよと思ってしまう。
個人的なことまで、社会問題にすべきなのか。
それを言ったらやっぱりLGBTQ+の問題全てがクローゼットの中にしまっておくべきなのか。
まだ途中だ。
まだ個人的な意見さえも突き詰められていない。
同性婚訴訟の判決から思うこと。
おはようございます、けんいちです。
違憲判断はとてつもなく大きな成果だし、大きな前進に繋がって欲しいと思える結果だと思いました。
最近、僕の身の回りではパートナーシップ制度を破棄したり、離婚したりする若者カップルが多いので、本当にこれが希望に繋がって欲しい。
それにしても、多様性が現実的になってきた今、離婚という決断を下す若者たちが身の回りに多いことに驚かされます。
もともとゲイカップルがカップルでいられるのは薄氷を踏むような綱渡りなのはわかっているけど、ノンケのカップルでさえ今や簡単に別れることも出来ることが、良いことなのか悪いことなのかわからないし。
ただ言えることは選択肢はあった方が良いと言うことだけ。
歳をとるごとに選択肢が狭まってきているように思っているけど、それも違うのかもと。
いろんな選択肢を自分が作っても良いのかもと思う。
それぞれが作った選択肢が受け入れられる社会なら、寛容性があると言えるのではないか。
寛容性には経済的な豊かさはあまり関係ない。
考え方の問題だからだ。
気持ち一つで、認めることが、認められることができる社会。
それがどんな状況を抱えている人にとっても、生きるに値する社会なのだと思う。
【無題】
おはようございます、けんいちです。
僕が所属するゲイコミュニティーは、主にゲイバーです。
すでに20年以上通い続けているし、もうそのコミュニティーに慣れてしまって居心地がいいというか、楽なので。
でも、その中での立ち位置は、年齢ごとにどんどん変遷しています。
まず、デビューしたての20代前半は、ゲイバーが嫌で仕方なかったし、ゲイバーはコミュニティーではなく憂さ晴らしの場であり、飲んだくれる場でした。
そしてモテること。年齢的にもゲイバーヒエラルキーの最上位である若さと、それなりのルックスで何をしても許される感もあり、ルックスと目立つことでモテまくっていました。もちろんタイプでない人からはガン無視でしたが。
次に酔っ払うと仕事の愚痴をこぼしまくり。挙句には泣く。
もちろん誰彼かまわず愚痴をこぼしてはいませんでしたが、高飛車で嫌味な僕を見捨てずに愚痴を聞いてくれる年上の店子さんにいっつも話を聞いてもらっていました。
この時代の僕の立ち位置は、若さでキラキラしていました。
浅はかで自覚なんてなかったけれど。
次に、もう若くない20代後半。
この頃にはゲイバーでの自分の立ち位置、私生活や仕事での充実感などがあり、自然に楽しめていた気がします。少しだけ丸くなれたというか。
この頃から、いわゆるオネエ言葉や仕草にも抵抗感がなくなって、ゲイバーで素の自分を出すことに抵抗もなくなった気がします。
オネエキャラも確立です笑。
でも、逆にこの頃の特筆事項が思いつきません。ただ、充実していただけだった気がします。
いや、一つだけ特筆事項がありました!今も当時も親友である友人と喧嘩をして1年間まったく連絡を取らなかったことです。僕は完全に彼と離れたつもりでいましたが、彼の方が1年経ったくらいに連絡をくれて、友情は修復され今に至ります。
総じて言えば、この時代もキラキラしていましたね。充実感を実感してました。
28、9から30代前半にかけては、年下の子に嫉妬を覚えた時期だし、どうやって自分の価値を高めるかということに躍起になっていたと思います。
ゲイバーヒエラルキーの上位にいたいなら努力が必要になってきたわけです。
この頃からですね、一緒に遊んできた友達たちが、ただのノリだけで連まなくなってきたのは。こっちの方が重大な問題。
それぞれがもう一度、社会や家族や仕事やいろんなしがらみと向かい合わなくてはいけなくなってきた頃。
ゲイにとっても、アラサーはいろんなしがらみと向かい合わなくてはいけない時期なのかもしれません。
社会的にも仕事的にもまだまだ自分を確立するために頑張れる時期なのに、早い人では親の介護を考えなくてはいけない人も出てきたりしました。
今までは個人的な努力で乗り越えてこられた問題ばかりだったのに、他人のために自己犠牲が必要になるというか、親なので他人ではないのだけれど、自分自身の問題ではないことに自己犠牲を払わなくてはいけないことの意味と向き合う必要が出てきたわけです。
ゲイは基本的に子供がいないから、自己犠牲なんて無縁だと思っていたのに。
そして、自分自身で制御できることのはずなのに、健康という問題を抱えることになる人も出てきます。それまでの不健康な生活のつけが成人病という形で出てき始めるのもこの頃。
ゲイにとっての健康を考える時、いっつも思い出すのが糖尿病になったデブ専の友達のこと。
彼は糖尿病になってしまったのにデブ専のデブという矛盾。
モテ続けたいために何度か危機的状況を繰り返し、結局仕事を辞めて田舎に帰ることになりました。
彼のことを思い出すと、さらに思い出す友人がいて、その友人は重度のアトピーなのにゴーゴーで、ステロイドを多用し、その結果取り返しのつかない事態を招き、やはり田舎に帰っています。
この頃って、どうしてもチヤホヤさなくなることへの恐怖感に支配されやすいのかもしれません。
そして僕はというと、地味という言葉の意味を取り入れることになりました。
神や親から与えていただいた物だけでは楽しくなれなくなったことを自覚し、自分の居場所を確保するためには、更なる自分自身の努力も必要とされる時節になったことを自覚したわけです。
なぜにそんなにゲイバーというコミュニティーに固執するのかとも思うのですが、それはきっと先の二人と同じ理由なのかもしれません。
30代後半から今に至るまでは、もう本当に特筆すべきことはありません。
一人の人間として、ただ生きているだけ。
全ては今までの延長線上だし、新しいチャレンジのはずなのにまったく新しくない。
まるで全てがLes MiserablesのI Dreamed A Dreamのよう。
かといって、まだ夢がないわけでもない。
こうありたいという自分もあって。
今までのゲイとしての人生を振り返り、これからのゲイとしての人生を模索するために始めたブログだったのだけど、別にきれいにまとめる必要もないのかなと。
コロナに罹患して、なんとなく形にしたくなったゲイとして思うことを文章してみようという思いにさえ慣れてきてしまったけど。
でも、いっか。
日記の代わりに、何か書き続けよう。
MacBook Airを下取りに出して気になったことをまとめる。
おはようございます、けんいちです。
5年間使用してきたMacBook Airを下取りに出しました。
下取りに出す前にやったことは、
- 備品の確認 (化粧箱なども含む)
- マシンの初期化
- 外観をきれいにする
でした。
一つ気になったのは、純正ACアダプタを落としてしまったことがあって、ケーブルを巻き付ける爪を折ってしまっていたことです。
で、査定結果ですが、ACアダプタの爪の破損は指摘なしでした。そういった備品は査定対象じゃないのかもしれませんね。
残念だったのはディスプレイに傷がついていたことです。
見せてもらったのですが、確かに小さな傷がついてました。
事前に拭いてる時には気づかなかったし、多分その時には付いてなかったと思うんだよなぁ。
でもお店のせいなんて言えるような証拠もないし…なので、黙っていることにしました。
ただ、店員さんにそういう傷ってどういう時に付くと思いますかとは聞いてみました。
そうしたら、MacBook Airの場合はフタを閉じるだけで自然に付いてしまうことがありますよということでした。
薄さが売りのAirならではといえば仕方ないし、ちょっと押しただけでディスプレイとキーが接触するのは想像できるし。
そう言われてみれば梱包した時に化粧箱のフタがピタッと閉まらなくてぎゅーぎゅー押してしまったんですよね…
下取り価格に関しては納得がいったので交渉成立。
で、今回の下取りで思ったことをメモ。
- 備品はちゃんと保管しておく。
- マシンをきれいに使う。
- 下取り価格はたまにチェックして売り時を見逃さない。
備品は化粧箱を含めて全て保管しておくのはPCを購入した際の鉄則だと思います。
次に、マシンをきれいに使うということですが、今までスマホでもないのにディスプレイ保護なんて考えたこともなかったけど、持ち歩いていて傷や汚れが付いていなかったことが奇跡だったんだと思う。下取りに出すつもりなら何か汚れや傷から守る方法を考えなければ。
そして下取り価格はまめにチェックですが、正直5年も経過したら買い取ってもらえるだけありがたいと思います。
新モデルに買い替える時に少しでも足しにしたいなら、売り時を逃してはいけないですよね。
それと、どんな電化製品にも寿命は設定されているわけですが、あのMacBook Airが売れたとして、後何年使ってもらえるのか考えるとなんとなく申し訳ないですし。
今度は売り時を逃さず、ベストな状態で下取りに出したいなと思います。
Macを下取りに出したいの巻。
おはようございます、けんいちです。
時代の流れって本当に早いですね。
使わなくなったMac Book Airを下取りに出すことにしたのですが、そもそも何をどうすればいいのかも調べながらです。
今まで初期化だけして廃棄するということしかしたことがなかったので、下取り準備が必要なことも知りませんでした。
バックアップを取ったり、初期化したりというのは基本の流れなのでわかるのですが、そのやり方がわからない。
ちょっとしたことでもiPhone片手に調べながらの作業です。
ふと、昔はもっと単純だったなと。
いったん初期化したらPCはただの箱になってしまって、起動ディスクを挿入すれば勝手に初期化メニューが表示されていたし、何よりWiFiにつながっている必要なんて一つもなかったです。
ネットに落ちている「下取り前にすること」的な記事を読みながらやっていたのに、WiFiに接続できる必要があることや、既存データの消去でマウントされていたボリューム情報まで消去されてしまうことなど、どこにも書いてなくて途中もしかしたら初期化に失敗したのかもと焦ってしまうこともありました。
それでも、作業を始めて1時間半でどうにかMacBook Airの初期化は完了したようです。
ちゃんと「ようこそ」画面も表示されているし。
これで下取りに出せると信じて、今度は下取りのエントリーですね。
ちなみに下取りしたいのはMacBook Airの2015モデル。
下取り価格がいくらになるのか楽しみです。
テーマとはぜんぜん関係無いことをつぶやく。MacBook Airを買い替えたの巻。
おはようございます、けんいちです。
自宅のPCはMacを使っています。MacBook Airの2015年モデルを普段使っています。
なのですが、先日買い替えてしまいました。わーい。
今回もMacBook Airです。
CPU負荷やメモリがいくらあっても足りないみたいな作業はしないのでAirで十分です。
で、今回買い替えた最大のポイントはCPUがApple純正になったことでした。
店頭でその圧倒的な速さを見てしまって、突如今使っているMacBook Airが今年中に下取りに出せなくなるかもという強迫観念を抱くほど、雲泥の差だったのです。
本当に衝撃的でした。
でもデモを見たお店では注文しませんでした。なんでも、その店舗で注文すると数ヶ月待ちだとのことで、そんなに待っていたら今年の9月が来てしまうじゃないかと思い、いったん思いとどまりました。
それで、その待たなくちゃいけない理由なんですが、今MacBook Airは学生さんに大人気だそうで、みなさん入荷待ちしているのだそうです。
で、なぜ学生に人気なのかというとYouTubeの影響だそうです。人気YouTuberの皆さんがこぞってM1チップを搭載しているMacBook Airを褒めちぎっているため、Mac Book Air一択なんだそうです。
YouTube。。。
そういえば、まだ就職したての頃はパソコンは自作していました。ただパーツを組み合わせるだけなんだけど、それなりに知識も必要で、ドライバの相性が悪かった日には本当に何日もかけて調べて試して動かせるようにしていました。
懐かしい。
でも、今そんなことしたいかと聞かれたら、Noですね。
買ってふたを開けたら即使える方がいいです。
ちなみに個人的に新しいAirのいいなと思っているところは、比較対象は2015モデルだけど、
早いこと。
軽いこと。
小さいこと。
特に軽いことは持ち歩くのでありがたい。
逆にちょっと残念に思っているのが、キーストロークが浅くて、打った時の感触も2015モデルの方がいいなと思っています。
とりあえず、新しいマシーン、バンザ〜イ!
サスティナブルと元彼の一言。
おはようございます、けんいちです。
僕はサスティナブルというものには違和感を持っている。
というのもの、元彼の一言が10年以上経っているのにいまだに刺さっているからだ。
「エコって金のかかることじゃん。ペットボトル捨てるのだって、洗って捨てるんでしょ。なんで水道代払って洗ってやる必要があるんだよ。エコって金持ちのためのしくみじゃん。」
僕がペットボトルを洗わずに捨てようとしていた元彼に、洗ってから捨てるんだよと言った言葉に対する返答がこれだった。
う〜ん、痛いところをつかれた。
意識が高いことが正義と思っていた頃だっただけに、なんだか見透かされた気がして。
みんなで負担を分担し合うこと。
でも、それは本当に平等なのかということ。
そもそも持続可能な世界を実現するための負担てなんなのだろう。
サスティナブルって良い価値観のはずなのに、素直になれない僕がいます。